2060年のリーガルテック

フィクションです

2060年の司法は専らAIによって運営される。当初は当然のように法曹関係者から反対されたが、単なる既得権益の防衛だとして無視された。絶妙に誤訳しているDeepLの出力を手直しする翻訳者(大抵の場合、一から翻訳し直すことになる)や、Stable diffusion modelの出力を手直しするイラストレータ(こちらも同じ)による嫉妬ではないかとの陰謀論も囁かれた。これらの議論は翻訳者やイラストレータの政治的影響力から考えて、4 chanみたいな場所を起源としていると考えられている。


刑事の袴田は悩んでいた。手元のWindows 18(結局18まで出た)の画面には裁判AIによる予測が出ている。懲役6ヶ月執行猶予1年。ジョブ型採用の成果主義の時代なので警察官の査定は合計獲得懲役年数によって決まる。この懲役年数では十分な成果とは言えない。長年少しづつ拡大を続ける同期との差に焦っていた。担当捜査官が多いのも問題だった。懲役年数は貢献度に応じて人事評価ソフトが配分する。

刑事の勘は余罪の存在を告げていた。強引に自白迫り、余罪を自白させる。そのパターンを裁判ソフトに入力したが、結果は芳しくない。強引な取り調べは不正な操作と認定されるリスクがある。機材故障の起きている取調室を使う。こちらも不正操作の意図を疑われるとの予測が出た。


弁護側提出資料、検察側提出資料はともに予測ソフトがある。事前に情報を収集出来ていれば裁判結果はかなりの精度で予測が出来る。問題となるのは裁判ソフトのバージョンだ。それぞれ別契約なのでアップデート作業日はズレる。その間の裁判予測は正確性を欠くことになり、場合によっては想定外に悪い結果となる。しかし対処法はある。日本は民主主義国家であるから上訴審が出来る。まずは上訴を行い、その間システム納入業者の技術営業を激詰めする。すると技術営業が技術者を激詰めし、油ぎった髪と疲れた目をした技術者が裁判ソフトを更新する。自動化されてもエンジニア不足は依然問題だった。今、文部科学省の官僚が情報Ⅳを学習指導要領に盛り込むための文書をAIに書かせている。

司法関係者が皆裁判ソフトで結果を予測するのだから、当然犯罪者も裁判ソフトを使う。コンプライアンスとして販路は制限されているはずだったが、40年前でもWikileaksやPornHubがあったのだから2060年の高度情報化社会においては販路制限はうまく機能しない。主なユーザーは詐欺集団だ。ギリギリの首謀者の捕まらないスキームを構築し、それを販売する業者が存在している。資本主義は高度な分業によって成立する。

中華王朝は(少なくとも、建前としては)徳治主義を採用していた。徳治主義は裁判ソフトの濫用を防げる。日本の武家政権の作成した刑法が、威嚇に支えられた一般的命令ではなく、裁判官の行動のマニュアルだったのも適切な判断だった。これらの知恵はリサイクルなどの江戸時代の習慣とともに失われてしまった。先人は常に賢い。


袴田は結局立件することにした。期待値はプラスだ。ここまでの投資を無駄にしたくはない。彼はコンコルドを開発した技術者に深い共感を覚えていた。資料作成AIが作成した資料をファイル自動暗号化機能付きメールクライアントで送付する。DXの時代なのでいちいち手で暗号化Zipを作る必要はない。パスワードは事前に書留で各所に送られている。2060年のセキュリティ意識は極めて高い。

余罪の追及は諦めた。物的証拠がない。被疑者のプロファイルからすると労力をかける価値は十分にあると考えられたが、強引な捜査と見做される可能性は高い。2060年の司法AIに搭載されるバカみたいに複雑化したUnfair関数は個人の属性に基づいた不平等性を非線形関数で算出し、Train Lossと線型結合する。裁判ソフトのバージョン間の最大の差違はこのUnfair関数の更新にあり、睡眠薬と気分安定薬の売り上げに貢献している。

裁判当日の答弁により結果が変わる可能性も十分ありえた。とよりさほど重くはない事件だ。僅かな可能性だが、査定が下がる可能性すらあり得る。ローリスクローリターンな賭けだった。袴田は賭けに対しては楽観的な見方を持っていた。離婚時期予測AIの結果を無視して強行した結婚は90%信頼区間を超えてもなんとか続いていた。娘の才能の賜物だった。

もし裁判の手続きに手間取り獲得懲役年数の積み上げに失敗した場合、娘の希望するバンクーバー留学がシンガポール留学に変わる可能性があった。少なくとも娘が修士を取るまでは休む暇はなかった。とは言え今年に限っては失敗しても構わない。もしバンクーバーがシンガポールになったとして、娘は落胆するだろうが、Apple Storeみたいにオシャレな大麻ショップでオーガニックでエシカルで持続可能な大麻を娘が購入する可能性が下がる。シンガポールもカナダに負けず劣らず良い国だ。未来は明るい。

昔オーウェルという人間が書き、バズった小説のことを思い出した。やたらと悲観的な未来予想だったが、そこから83年後の現在は意外と悪くない。民主主義と法治主義はいまだに流行している。先人は常に賢いが、予測の材料に事欠く。現代に生きる我々には及ばない。